最後の一台
 真っ暗な倉庫の中に彼はいた。もう何日間、何ヶ月間、いや何年間この暗闇の中にいるのだろう。
長い間走って、また長い間眠っている、ただそれだけだ。ここがどこなのか、彼にはどうでもよかった。
身体のあちらこちらが固まっていくのが分かる。
もともと自分自身で動かせる身体ではないし、この背中に乗る人間もいなくなってしまったのだろうか。
倉庫の中で少しずつ埃に埋もれていきながら、彼のエンジンの中のオイルが酸化していくのや、タイヤの空気が抜けていくのをただ受け止めていた。
自然の力がゆっくりと彼を元の自然の姿に戻そうとしている。
あとどのくらい眠っていれば、そんなことを気にしなくて済むようになるのだろう。

 突然、倉庫の扉が開いて眩しいほどの光が入り込んできた。そのまん中に人間がいた。
人間はしばらく彼の前で立ったままだった。それはまるで懐かしい友人にでも逢った時のような目で彼を見つめていた。
少々腹の出た金髪でくすんだ青い目をした人間は彼を表へ出した。
そこには乾いた太陽の光が降り注いでいて、その光を浴びた彼は少しだけ記憶を取り戻した。
そう、自分は昔いた土地に連れ戻されたのだと。ここはカリフォルニアであって前は日本にいたという事。
日本で造られアメリカに行き、また日本に輸送されて、そしてまたカリフォルニアに戻ってきたのだ。人間は勝手な事をするモノだと彼は思った。

 金髪の人間は倉庫の中から大きな工具箱を持ってきた。彼をバラすつもりなのだろうか。
自分がいつ鉄屑屋に売られても不思議ではない。箱の二段目からプラグレンチを取り出し、おもむろにプラグキャップを外し、抜き取ってからじっと見ていた。
どうやらバラすつもりではないらしい。左右のプラグが新品になって少し気持ちがスッキリした。これでいつでも強いスパークを一分間に何千回と打てる。


 次に人間の手がキャブレターに延びて外しにかかった。
必要な手順をちゃんと踏んで二つのキャブレターは少しの時間で彼の身体から離れた。
コイツは意外と出来るヤツかもしれないと彼は思った。キャブレターが分解され一つ一つのパーツになる。
こまかいゴミや腐ったガソリンが洗浄剤できれいに吹き飛ばされてゆく。
また元に組み直し、再び彼の身体に装着された。そうやってバッテリーやミッションオイル、2ストロークオイル、エアクリーナーの交換、各可動部のオイルやグリスの充填などを経て、最後にガソリンがタンクいっぱいに注がれた。
ずいぶん時間が掛かったようにも感じたが、あっという間だったような気もする。

 そしてキーが差し込まれスイッチがオンになった瞬間、彼は完全に目を醒ました。
人間がまたがりキックペダルを踏みおろす。一回二回とキックがおろされ三回目に彼は咳き込むように重い雄叫びを上げ、自分が完全に復活したという証明を吠えてみせた。人間はワオ!と奇声を上げて喜んだ。
アイドリングが少々安定しないが文句は言うまい。自分を再生してくれた者だし、なにより新しいパートナーだ。

 彼をそのままにして人間は倉庫の中へいそいそと入って行ってヘルメットを取ってきた。
胸のポケットからサングラスを取り出し鼻歌を口ずさみながら似合わない顔に掛け、彼と人間は走り出した。

 細い道を少し行って左に曲がり、大通りに出た。走り出してみて風景が少し違っていたことに気が付いたがアスファルトの感覚は以前と変わらない。
各ギアの回転数をパワーバンドに入ったくらいでキープして人間は彼を丁寧に扱った。
車の速度に合わせながら流していると、自分が復活しているという事に実感がわいてきた。

 しかし、彼は気付いていなかった。自分と同じ仲間が一台たりとも走っていないことを。
周りは車ばかりで、たまにすれ違うのはハーレーか日本車でもホンダやカワサキの4ストロークビッグバイクばかり。2ストロークマシンの排気音はどこにも響いていない。
車を追い越した時、その排気音にドライバーが横目で彼等を睨みながら、なんて下品なオートバイなんだろうという顔をしていたが、彼を操縦する人間は全く気にしていないようだった。

 人間のなじみのバイク屋に着くと店員が出てきて彼を見て驚いた顔をした。
二人の会話のやり取りから、彼は自分がとても珍しい存在であることを知った。そして奇妙なことを聞いた。
2ストロークマシンがもう走れない事になっていたのだ。厳密には新規登録をすることが出来なくなり、新しいマシンはもういないという事だ。

 どういうことなのか、彼の後継機として出てきた次の世代の水冷マシン達、彼がニホンにいた頃は街中を彼の次世代、そのまた次の世代の2ストロークマシン達がわがもの顔で走り回っていたではないか。ここでは事態が急変している、ではニホンでもそうなのだろうか。

 理由は排気ガスの規制だった。
彼自身が造られた時も彼の身体にはブローバイガス還元装置が取り付けられていたが、もはやそれだけでは通用しなくなっていた。
皮肉なことにこの装置の開発があったからこそ、その後のパワーバルブシステムが発明されて、あの隆盛を極めたのだ。しかし、それもすでに終焉を迎えようとしていた。

 自分達は終わっていくのだろうか。もしかしたら自分達ではなく、すでに自分ひとりになってしまってはいないか。どこまで走っても仲間のカン高いエグゾーストノートを聞くことはないのか。

 人間は店員に向かってこのバイクをずっと乗り続けて行くと言っていたが、彼は自分のエンジンのクランクの一部にガタが来ているのを感じ取っていた。いずれはこの小さなトラブルがエンジン全体に影響を及ぼし、ピストンの抱き付きか焼き付きを誘発して、彼の心臓部は完全に動かなくなる。
メーカー在庫のパーツを新たに組み込めばそれで済むのかも知れないが、しかし、彼に関する部品類のストックはもうほとんど無いと言っていいだろう。
無ければ造ってしまえばいいと人間は言うが、お金をかけて直してまた走り出しても彼と競い合うマシンはいないし、彼の後継ぎとなるマシン達の姿を見ることは無い。
永遠に独りきりだということを無機質な無意識の中で、空気中の極わずかな湿度を感じ取るように意識した。
彼は最後の空冷エンジン、最後の2ストロークマシンになってしまった。

 夕暮れになり柔らかいオレンジ色の光に晒された。パールホワイトのタンクがヒトの肌よりも美しく輝く。
その輝きを保ったまま彼らは南へとメインストリートを行く。このままどこまでも走っていける、ガソリンとオイルさえあれば。

 家に帰る途中の信号でスズキのリッターバイクと並んだ。
そのスズキに乗るライダーは、やはり車のドライバーと同じ目で彼らを見た。
シグナルが変わり、時代錯誤も甚だしいといわんばかりに、そのマシンはあっという間に前方へ走り去って行った。
何人か前のパートナーだった者はいつも信号ではナナハンクラスのマシンに挑んでいたし、また勝つことに情熱をかけていたような気がするが、今回の操縦者は初めからその気が無いのか、もしくは無駄だということを知っているようだった。
時代は変わってしまったのか。

 また倉庫まで戻ってきた。人間は彼を元の位置に戻し、ガソリンコックをオフにした。
そしてシートを開けて、バッテリーの線をスパナで外し、これでオーケーと言って彼から離れた。
倉庫から出る前にもう一度彼の下の方を見て、オイルが漏れていないか確認するほどの徹底振りだ。

 じゃぁまたな、と言って人間は倉庫の扉を閉めた。外からは二人の子供の声が聞こえてきた。
再び暗闇の中に戻った。

 彼は分かっていた。
彼の寿命が尽きてこの地に2ストロークマシンがいなくなってしまう前に、2ストロークマシンに乗る人間がいなくなってしまうという事を。

 自分達で造っておきながら自分達の都合で勝手にこの世から葬り去ってしまう、この身勝手な人間達がまた自分を造ったのだ。

 カリフォルニアの乾いた空気を吸い込みながら、その中の極わずかな水分と酸素がいずれはこの身をゆっくりと別な物質へと造り変えていくのを彼は感じていた。

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